正倉院関連年表Shōsō-in Chronology

凡例

  • 事項中の用字は典拠史料に従うのを基本としたが、必要に応じて改めた場合がある。
  • 典拠史料が多数に及ぶ際は、代表的なもののみを掲出した場合がある。また明治以降については掲出を省略した。
  • 典拠史料のうちいくつかは略名で表記した。それぞれの略名と正式名称は以下の通り。
    続々修□ノ◯=続々修正倉院古文書第□帙第◯巻、続修後集□=続修正倉院古文書後集第□巻、東南院□ノ◯=東南院古文書第□櫃第◯巻、塵芥□=正倉院塵芥文書第□巻、実祐記=慶長十九年東大寺三蔵開封記(薬師院実祐記)

奈良時代

西暦 和暦 月日 事項(〔〕内は典拠史料)
743年 天平15年 10月15日 聖武天皇、紫香楽宮において、大仏造立の詔を発する〔『続日本紀』同月辛巳条〕
749年 天平勝宝元年 7月2日 聖武天皇、譲位し、孝謙天皇、即位する〔『続日本紀』同月甲午条〕
752年 天平勝宝4年 4月9日 東大寺大仏の開眼供養が催される。孝謙天皇、百官人を率いて参列〔『続日本紀』同月乙酉条〕。聖武太上天皇と光明皇太后も臨席〔『東大寺要録』供養章〕
756年 天平勝宝8年 5月2日 聖武太上天皇、崩じる〔『続日本紀』同月乙卯条〕
6月21日 光明皇太后、聖武の七七忌にあたり、国家の珍宝と60種の薬物を東大寺大仏に献納する〔国家珍宝帳、種々薬帳〕
7月26日 屛風や花氈などが東大寺に献納される〔屛風花氈等帳〕
10月3日 宝庫より人参が出蔵され、施薬院に充てられる〔出入帳〕 ※最初の出蔵
757年 天平勝宝9年 正月21日 宝庫より沙金が出蔵され、大仏鍍金料として造東大寺司に充てられる〔沙金桂心請文、出入帳〕
5月2日 聖武太上天皇の一周忌法要が東大寺において営まれる〔『続日本紀』同月己酉条〕
天平宝字元年 閏8月24日 金薄絵木鞘大刀子と人勝が献納される〔斉衡三年雑財物実録〕
758年 天平宝字2年 6月1日 王羲之と王献之の真跡書が東大寺に献納される〔大小王真跡帳〕
10月1日 光明皇太后、父の藤原不比等から継承した真跡屛風を東大寺に献納する〔藤原公真跡屛風帳〕
12月16日 宝庫より冶葛が出蔵され、内裏に進上される〔出入帳、延暦六年曝凉使解〕
759年 天平宝字3年 3月25日 宝庫より桂心100斤が出蔵され、施薬院に充てられる〔沙金桂心請文、出入帳〕
4月29日 宝庫の花氈が、宮中御斎会の堂装束のために貸し出される〔出入帳、延暦六年曝凉使解〕 ※薬物・沙金以外の最初の出蔵
12月26日 宝庫より犀角奩や陽宝剣、陰宝剣などが出蔵される〔出蔵帳〕
760年 天平宝字4年 6月7日 光明皇太后、崩じる〔『続日本紀』同月乙丑条〕
761年 天平宝字5年 3月29日 宝庫より麝香、犀角など多種多量の薬物が出蔵され、内裏に進上されたほか、僧や諸人の施薬料に充てられる〔出入帳、延暦六年曝凉使解〕。また、同日、宝庫の薬物のうち甘草、大黄、人参、桂心の各1唐櫃分を中倉に移す〔出入帳〕
762年 天平宝字6年 12月14日 宝庫より欧陽詢の真跡屛風が道鏡に貸し出される。2年後の8年7月27日、返納〔出入帳〕 ※宮中以外への最初の出蔵
764年 天平宝字8年 7月27日 宝庫より桂心が出蔵され、施薬院に充てられる〔出入帳、雑物出入継文〕
9月11日 宝庫より御大刀48口、黒作大刀40口、弓103枝、甲100領、靫3具、胡禄96具が出蔵され、内裏に献じられる〔出入帳、延暦六年曝凉使解〕。この日、藤原仲麻呂の乱が勃発〔『続日本紀』同月乙巳条〕
767年 天平神護3年 2月4日 称徳天皇、東大寺に行幸する。このとき銀壺などを献納する〔『続日本紀』同月甲申条、銀壺(南倉13)〕
768年 神護景雲2年 4月3日 称徳天皇、東大寺に行幸し、碧地彩絵几などを献納する〔同附茶綾几褥(中倉177ノ15)〕
この年の5月13日付、称徳天皇願文を持つ『大乗悲芬陀利経』巻第3などの経典4巻が、聖語蔵に伝わる
770年 神護景雲4年 5月9日 宝庫より屛風3帖が出蔵され、造東大寺司に充てられる。2年後の宝亀3年8月28日、返納〔出入帳〕
8月4日 称徳天皇、在位のまま崩じる〔『続日本紀』同月癸巳条〕
776年 宝亀7年 9月21日 宝庫の大刀が点検される〔延暦六年曝凉使解〕
778年 宝亀9年 5月18日 宝庫より螺鈿紫檀琵琶と紫檀琵琶が出蔵され、内裏に献上される。翌年12月6日、返納〔出入帳〕
779年 宝亀10年 12月6日 宝庫より冶葛が出蔵される。親王禅師(早良親王)の請いによる〔出入帳、雑物出入継文〕
781年 天応元年 8月12日 宝庫より王羲之と王献之の真跡書1巻、王羲之の「書法」20巻、及び『雑集』・『楽毅論』など「御製書」4巻が出蔵され、内裏に進上される〔出入帳〕
8月18日 宝庫より出蔵されていた「書法」のうち12巻と「御製書」4巻が返納される〔出入帳〕。またこの日、宝庫より桂心、人参、芒硝、呵梨勒等が出蔵され、造東大寺司に(一部、施薬院にも)充てられる〔出入帳、雑物出入継文、延暦六年曝凉使解〕
782年 天応2年 2月22日 宝庫より出蔵されていた王羲之と王献之の真跡書1巻が返納される〔出入帳〕
784年 延暦3年 3月29日 宝庫より出蔵されていた王羲之の「書法」8巻が返納される〔王羲之書法返納文書、出入帳〕
787年 延暦6年 6月 宝物の曝涼と点検が行われ、26日付で報告書が作られる〔延暦六年曝凉使解〕
793年 延暦12年 6月 宝物の曝涼と点検が行われ、11日付で報告書が作られる〔延暦十二年曝凉使解〕

平安時代

西暦 和暦 月日 事項(〔〕内は典拠史料)
794年 延暦13年 4月27日 この日の官符により、宝庫より麝香、犀角等の薬物が出蔵され、内裏に進められる〔延暦十二年曝凉使解、弘仁二年勘物使解〕。また、同日付の別の官符により、宝庫より大黄が出蔵され、藤原内麻呂と菅野真道に給される〔弘仁二年勘物使解〕
6月13日 この日の官符により、宝庫より檳榔子が出蔵され、内裏に進められる〔弘仁二年勘物使解〕
9月13日 この日の官符により、宝庫より呵梨勒が出蔵され、内裏に進められる〔弘仁二年勘物使解〕
799年 延暦18年 11月11日 宝庫より大黄、甘草、小草、檳榔子等の薬物が出蔵され、内裏に進められる〔雑物出入継文、弘仁二年勘物使解〕
802年 延暦21年 11月21日 宝庫より大黄、甘草等の薬物が出蔵され、内裏に進められる〔雑物出入継文、弘仁二年勘物使解〕
803年 延暦22年 1月23日 宝庫より大黄等の薬物が出蔵され、病僧の施薬料として東大寺三綱に充てられる〔雑物出入継文、弘仁二年勘物使解〕
805年 延暦24年 11月15日 宝庫より﨟蜜が出蔵され、東大寺大仏背後の山形を彩色する料などとして、造寺所に充てられる。また、桂心、甘草が出蔵され、病僧の施薬料として東大寺三綱に充てられる〔雑物出入継文、弘仁二年勘物使解〕
806年 大同元年 9月7日 宝庫より白犀角が出蔵され、内裏に進められる〔雑物出入継文、弘仁二年勘物使解〕
811年 弘仁2年 9月 宝庫内の資財と官物の点検が行われ、25日付で報告書が作られる〔弘仁二年勘物使解〕
813年 弘仁4年 2月9日 宝庫より犀角が出蔵され、藤原緒嗣に売却される〔御物納目散帳〕 ※売却の初例
814年 弘仁5年 6月17日 宝庫より麝香、犀角が出蔵され、内裏に進められる。麝香は7月29日に返納〔雑物出入帳、御物納目散帳〕
7月26日 宝庫より黄袷、紫綾、竜頭、仏台幡を出蔵し、東大寺の寺用に充てる旨の申請がある〔同日東大寺三綱牒(続々修四十四ノ十一)〕
7月29日 宝庫より桂心、人参、胡枡等の薬物が出蔵され、病僧の施薬に充てられる〔雑物出入帳、御物納目散帳〕
9月17日 宝庫より屛風36帖と白石鎮子16枚が出蔵され、売却される〔雑物出入帳〕
10月19日 宝庫より銀平文琴、漆琴、玳瑁箸が出蔵され、売却される〔雑物出入帳〕
817年 弘仁8年 5月27日 宝庫より弘仁5年10月に出蔵された琴と箸の代替として、金銀平文琴1隻、漆琴1隻、箸2隻が納められる〔雑物出入帳〕
820年 弘仁11年 10月3日 宝庫より王羲之と王献之の真跡や繡線鞋などが出蔵され、売却される〔雑物出入帳〕
822年 弘仁13年 3月26日 宝庫より鏡5面、浅香、紫鉱等が出蔵され、仏事用に充てられる〔雑物出入帳、御物納目散帳〕
5月6日 宝庫より甘草、人参等の薬物が出蔵され、病僧の施薬に充てられる〔雑物出入帳〕
823年 弘仁14年 2月19日 宝庫より桐木箏、紫檀琵琶、螺鈿紫檀五絃琵琶、新羅琴2面、銀平文革筥等が出蔵される。4月14日に返納されたが、新羅琴2面、桐木箏、紫檀琵琶は代替品が納められ、革筥は返納されず〔雑物出入帳〕
826年 天長3年 9月1日 宝庫より甘草、人参等の薬物が出蔵され、病僧の施薬に充てられる〔雑物出入帳〕
832年 天長9年 5月25日 宝庫より薫陸、雑香が出蔵され、大仏殿読経所の料に充てられる〔同日出用注文(続修後集四十一)〕
856年 斉衡3年 6月 宝庫内の財物の点検が行われ、25日付で報告書が作られる〔斉衡三年雑財物実録〕
860年 貞観2年 8月14日 宝庫より紫鉱が出蔵される〔御物納目散帳〕
919年 延喜19年 4月 宝庫より力士装束が出蔵される。天暦9年(955)4月8日、返納〔呉楽力士裹(南倉124ノ17)〕
950年 天暦4年 6月 南倉に、東大寺羂索院双倉の品が移納され、綱封とされる〔『東大寺要録』諸院章〕
971年 天禄2年 この年の5月17日に東大寺別当となった法縁、2年間で「正蔵院」を含む多数の堂舎を修造する〔天延二年五月二十四日太政官牒(東南院一ノ二)〕
1019年 寛仁3年 9月30日 藤原道長、宝庫を開き、宝物を取り出させて見る〔『左経記』同日条、『小右記』同月二十九日条〕
1031年 長元4年 7月5日 仁海僧都、宝庫が強風により破損したことを報告し、修理を請う〔『小右記』同日条〕。これを受け、翌年8月4日以前に修理が実施される〔『左経記』同年八月四日条〕
1038年 長暦2年 3月3日 夜、勅封蔵に盗人が入り、宝物が盗み取られる〔『東大寺別当次第』〕
1040年 長暦4年 9月18日 前年3月に起きた勅封倉盗難事件の犯人(僧の長久と同類数名)が捕らえられる〔『春記』同月二十四日条〕。犯人より押収した100余両に及ぶ銀は、この年のうちに勅封倉へ戻される〔『春記』同年十月十八日条、檜合子蓋(南倉174ノ15)〕
1057年 天喜5年 正月 「正蔵院南御庫」(南倉)が修理され、8〜10月頃、「勅封御庫」(北倉・中倉)の棟1間分が葺き替えられる〔天喜五年東大寺修理所注進文(東南院二ノ三)〕
1079年 承暦3年 8月28日 勅封蔵北西隅の破損部を修理するため、宝庫が開かれることになり、朝廷から使者を派遣するとの連絡が東大寺に出された〔同日官宣旨〕。このとき宝庫から麝香5両が内裏に進上され、代わりに銀提子1口(南倉16)が施入された〔『東大寺別当次第』〕
1100年 康和2年 この年の冬、勅封蔵が修理される〔『東大寺別当次第』〕
1116年 永久4年 この年、南倉の納物のうち、「重物」(重要なもの、の意か)を勅封倉に移す〔綱封蔵見在納物勘検注文(塵芥十八)〕
1117年 永久5年 8月7日 綱封蔵(南倉)の納物が調査され、目録が作られる〔綱封蔵見在納物勘検注文(塵芥十八)〕 ※南倉宝物にかかわる初めての目録
9月23日 綱封蔵(南倉)より大仏殿所用具のために出蔵された銀、銅等の斤量が報告される〔綱封蔵銀銅等斤納注文案(塵芥二十三)〕
1130年 大治5年 5月1日 勅封倉を開き、東大寺別当の定海が立ち会って、点検が行われる。湿損の疑いによる〔『中右記』同日条、御物納目散帳〕
1142年 康治元年 5月6日 鳥羽法皇、勅封倉を開き、聖武天皇の玉冠、鞍、碁局、投壺など数々の宝物を見る〔『本朝世紀』同日条〕
1150年 久安6年 3月17日 綱封蔵(南倉)下階に、平忠盛が東大寺に施入した蒔絵野剣、丸鞆犀角帯などを納める。これらは、忠盛の息子でその1年前に没した家盛の遺品であった〔綱封蔵雑物入出帳(塵芥十六)〕
1160年 永暦元年 2月8日 綱封蔵より火舎、磬、伎楽面などが出蔵され、東大寺の仏事等に充てられる。あわせて平家盛の帯も出蔵〔綱封蔵雑物出蔵帳(塵芥三十六)〕
1161年 永暦2年 正月30日 綱封蔵より釘、銅等が出蔵され、東大寺大仏殿華厳会に使用する仏具等の修理料に充てられる〔綱封蔵雑物入出帳(塵芥十六)〕
1165年 永万元年 7月22日 六条天皇の即位式を目前に控え、綱封蔵の礼服を取り出して内裏に進めるため、僧綱から使者を遣わすことが東大寺に伝えられる〔同日僧綱牒(東南院四附ノ三)〕
1167年 仁安2年 3月5日 綱封蔵より宝鐸、鉢などが出蔵され、東大寺南大門での使用に充てられる。あわせて平家盛の剣も出される〔綱封蔵雑物入出帳(塵芥十六)〕
1170年 嘉応2年 4月20日 後白河法皇、南都へ行幸の折、勅封蔵を開いて宝物を見る。平清盛等も同行〔『兵範記』同日条〕
1180年 治承4年 12月28日 平重衡の軍により南都が焼きはらわれる。東大寺と興福寺は壊滅的な被害が出るも、宝庫は難を逃れる〔『山槐記』同日条ほか〕

鎌倉時代

西暦 和暦 月日 事項(〔〕内は典拠史料)
1185年 文治元年 8月28日 後白河法皇、再興された東大寺大仏の開眼供養にあたり、前日に勅封倉より出蔵した開眼筆と墨を使い、自ら筆を入れる〔『東大寺続要録』供養篇、『玉葉』同月二十九日条、『山槐記』同日条〕
11月15日 綱封蔵の階下を重源上人に開け渡すため、経論431帙を他の経蔵に移し、それ以外の唐櫃等を階上に納める〔綱封蔵取出聖教注文(塵芥二十三)〕
1189年 文治5年 3月21日 勅封倉を開いて点検するため、造東大寺長官の藤原定長が東大寺へ下向する。これより先、宝庫の湿損甚大なることが東大寺から報告されたのを受けて〔『玉葉』同日条〕
1193年 建久4年 5月10日 勅封倉の破損状況が、去る5日に南都へ下向し点検を行なった藤原定長より報告される〔『玉葉』同日条〕
8月25日 勅封蔵が修理のために開かれる。宝物は、運び出して点検した後、綱封蔵(南倉)に仮置される。このとき作られた宝物目録が残る。修理は翌年3月までに完成し、宝物も戻される〔『東大寺続要録』宝蔵篇〕
1198年 建久9年 2月26日 宝庫より礼服を取り出すため、勅使が下向する。翌27日、土御門天皇即位の料として白練絹礼服、練綾礼服、玉冠が出蔵され、夜に入って京都に届く〔『三長記』同月二十六・二十七・二十八日条〕
1230年 寛喜2年 7月17日 北倉と南倉が修理のために開封される。北倉の宝物は中倉へ移され、南倉の納物は東大寺上司倉3宇のうちの1宇に仮置される〔『東大寺続要録』宝蔵篇〕
10月27日 中倉に盗人が入り、宝物が盗み取られる。11月29日、僧の顕識が犯人として捕らえられる。自供により、転売目的で盗んだ鏡8面は、思うような値が付かず、砕き割って大仏殿前の社に捨て置いたことが判明〔『東大寺続要録』宝蔵篇〕。破損した鏡は翌年3月14日、宝庫に戻される〔御物納目散帳〕
12月7日 先の盗難事件により紛失した宝物を確認するため、勅使が派遣され、中倉が開かれる〔『東大寺続要録』宝蔵篇〕
1237年 嘉禎3年 6月3日 宝庫を開いて宝物の点検が行われるも、周囲で不穏な動きがあり、倉中で櫃数を確認するに留まる〔『東大寺続要録』宝蔵篇〕
1239年 延応元年 11月26日 九条道家、勅封蔵を開いて鴨毛屛風、冠、玉箒など各種の宝物を見る〔「延応元年記」(『西園寺家記録』所収)、『東大寺続要録』宝蔵篇〕
1242年 仁治3年 3月13日 後嵯峨天皇の即位にあたり、勅封倉から玉冠と諸臣礼服・冠が出蔵される(これを基に即位式で着用の冠が新調された)。同月22日、宝物は勅封倉に戻されたが、一部は路次で破損した〔『東大寺続要録』宝蔵篇〕
1243年 寛元元年 閏7月23日 勅封倉の雨露による破損を修理するため、宝物を東大寺上司倉に移す〔『東大寺勅封蔵記』下〕
1246年 寛元4年 9月28日 勅封倉の修理が完了し、宝物が上司倉から戻される〔『東大寺続要録』宝蔵篇〕
1254年 建長6年 6月17日 北倉の扉に落雷し、一部の柱等が焼ける。すぐに修理に取りかかり、8箇日間で破損した部材が造り替えられる。7月6日、勅封蔵が開かれ、落雷による宝物の損失の有無が点検される〔『東大寺続要録』宝蔵篇〕
1258年 正嘉2年 1月22日 前関白の近衛兼経、勅封倉を開き、宝物を取り出して見る〔『東大寺続要録』宝蔵篇〕
1261年 弘長元年 9月5日 後嵯峨上皇、宝庫を開き、開眼筆、瑠璃壺等の宝物を取り出して見る。また、御袈裟を出蔵する。御袈裟は翌年8月21日に返納〔御物納櫃目録(続修後集三)、『東大寺続要録』宝蔵篇〕
1288年 弘安11年 4月23日 後深草上皇、勅封倉を開き、紫檀厨子、開眼筆等の宝物を見る〔『東大寺勅封蔵記』下〕
この年、宝庫の屋根瓦が部分的に葺き替えられる〔正応二年正月十八日東大寺修理新造等注文案(東大寺文書)
1328年 嘉暦3年 4月20日 宝庫が盗難に遭ったことを受け、この日に盗人と宝物の行方が占われる〔同月二十一日安部支清勘文〕
7月5日 後醍醐天皇、宝庫盗人を捕えた者に報賞を出すことを通達する〔同日綸旨(東南院六ノ四)〕

南北朝・室町時代

西暦 和暦 月日 事項(〔〕内は典拠史料)
1360年 延文5年 2月13日 朝廷より琵琶の出蔵について申し入れがあるも、東大寺の衆徒はこれに反対する〔延文五年東大寺衆徒僉議事書〕
1385年 至徳2年 8月30日 足利義満、南都へ下向の折、宝物を東大寺尊勝院において見る〔『春日権神主師盛記』(至徳二年記)同日条〕
1429年 永享元年 9月24日 足利義教、南都へ下向の折、宝物を見る。碁石3つと沈香2切を拝領する〔『満済准后日記』同日条〕
1465年 寛正6年 9月24日 足利義政、南都へ下向の折、宝庫を開き、東大寺西室において宝物を見る。2種の香木から各3片を切る〔東大寺三倉開封勘例、『蔭涼軒日録』同日条〕

安土桃山時代

西暦 和暦 月日 事項(〔〕内は典拠史料)
1574年 天正2年 3月28日 織田信長、大和国多聞山城に下向の折、勅許を得て宝庫を開き、蘭奢待、全浅香、碁局を多聞山城において見る。蘭奢待より2片を切る。その後、3倉とも開いて中に入る〔天正二年截香記〕

江戸時代

西暦 和暦 月日 事項(〔〕内は典拠史料)
1603年 慶長8年 2月25日 宝庫修理のため、開封される。宝物は「二ツ蔵」(東大寺油倉)に移納された〔東大寺三倉開封勘例、実祐記〕
9月 徳川家康、宝庫の修理にあたり長持32箇を寄進する〔慶長櫃(中倉202)〕
1610年 慶長15年 7月21日 宝庫に盗人が入る(ただし、盗難の事実が判明したのはその2年後のこと)〔実祐記〕
1612年 慶長17年 3月21日 宝物が売りに出ているとの情報があり、宝庫を調べると北倉の床が切り破られていた〔実祐記ほか〕
閏10月21日 宝庫に盗み入った犯人(東大寺僧3名と町人1名)が捕らえられる。事件を受けて、11月13日に宝庫が開封され、宝物目録が作成される〔実祐記、東大寺三蔵御宝物御改帳ほか〕
1663年 寛文3年 4月16日 東大寺衆僧、宝庫の開封を要望し、これを受けて8月19日、江戸幕府が宝庫3倉の修理を命じる〔『庁中漫録』七〕
1665年 寛文5年 10月9日 東大寺衆僧、宝庫の開封(及び宝物の点検)を再度要望する〔『庁中漫録』七〕
1666年 寛文6年 3月4日 宝庫が開封される。翌日より各倉宝物の点検。目録が作られる。7日に閉封〔『庁中漫録』七、寛文六年正倉院御開封之記〕
1693年 元禄6年 5月16日 宝庫が修理のために開封される。同月20日まで宝物を点検し、目録が作られる(正倉院文書の存在が確認される)。点検された宝物は、東大寺油倉へ仮納された。6月15日より7月13日まで、宝庫の修理〔正倉院御開封記草書、東大寺正倉院開封記、『庁中漫録』四十五〕
8月1日 東大寺油倉に仮納してあった宝物が宝庫に戻され、7日に閉封の儀あり。この開封中、鴨毛屛風等が修理され、また江戸幕府より宝物用の箱や櫃が寄進される〔正倉院御開封記草書、元禄櫃(中倉202)〕
1830年 文政13年 この年、宝庫の屋根が大破し、東大寺が修理を願い出る〔正倉院宝物御開封事書〕
1833年 天保4年 10月18日 宝庫が修理のために開封される。宝物は四聖坊において点検され(24日まで)、東大寺の東南院宝蔵・八幡宮南宝蔵(旧油倉)と大湯屋に仮置される〔正倉院宝物御開封事書、天保四年十月十八日正倉院御開封之記〕
1835年 天保6年 この年、宝物の調査が行われる。前回開封(元禄)時の目録と、2年前の点検目録とが照合され、また写本の作成が行われる〔東大寺開闢領地御施入勅書古絵図出現之記、天保七年東大寺正倉院御宝物目録ほか〕
1836年 天保7年 3月頃 正倉院文書が穂井田忠友の手により整理、編集される〔『観古雑帖』、『山城大和見聞随筆』〕
6月20日 宝庫が閉封される。3年近くに及んだ開封の間に、杉箱16口が新調される(徳川家斉による寄進)〔天保七年六月廿日正倉院御閉封記〕
1847年 弘化4年 3月10日 東大寺大勧進所、寺宝の開帳を行う。このとき二月堂に展示された宝物の中に鴨毛御屛風、天平古切御屛風、正倉院古文書などの正倉院宝物が含まれる。展示は4月29日まで〔東大寺宝物録〕

近現代

西暦 和暦 月日 事項(〔〕内は典拠史料)
1872年 明治5年 8月12日 宝庫が開封される。政府の社寺宝物調査(壬申検査)により、蜷川式胤らが20日まで宝物を調査。23日、閉封
1875年 明治8年 3月1日 東大寺大仏殿での奈良博覧会(第1回)が開幕し(5月20日まで)、宝物も展観される。奈良博覧会での宝物展観は、明治9年、11年、13年にもあった
3月10日 宝庫と宝物が政府の直接管理の下に置かれる
1877年 明治10年 2月9日 明治天皇、四聖坊において宝物を見る。このとき蘭奢待を截る
1879年 明治12年 12月 宝庫に棚架を設けて宝物を陳列する旨の申請が伊藤博文よりあり、翌年1月に許可される
1882年 明治15年 8月 宝庫内の陳列用棚架が完成し、宝物を陳列する
1883年 明治16年 7月 宝物の毎年の曝涼が制度化する
1884年 明治17年 5月6日 宝庫と宝物の管轄省庁が、宮内省に一本化される
1885年 明治18年 12月 宮内省図書寮の下に正倉院宝庫掛が置かれる
1889年 明治22年 7月9日 宝庫の定期曝涼の際に、参観を許可することになる
1892年 明治25年 6月 宮内省に正倉院御物整理掛が置かれる。宝物整理と補修の開始(御物整理掛は明治37年に廃止)
1893年 明治26年 この年、東大寺尊勝院経蔵(聖語蔵)と経巻約5千巻が皇室に献納される。建物は後年、現在位置に移建
1908年 明治41年 1月 宝庫と宝物が帝室博物館の所管となり、5月に東京帝室博物館に正倉院宝庫掛が置かれる
1913年 大正2年 この年、宝庫の全面解体修理が3月21日から12月23日にかけて行われる
1914年 大正3年 9月16日 奈良帝室博物館に正倉院掛が置かれ、11月より古裂の整理が始められる
1925年 大正14年 4月15日 正倉院宝物古裂類臨時陳列展が、奈良帝室博物館で開かれる(同月30日まで)
1940年 昭和15年 11月5日 正倉院御物特別展観が、東京帝室博物館で開かれる(同月24日まで)
1946年 昭和21年 10月21日 正倉院特別展観が、奈良帝室博物館で開催される(第1回正倉院展)(11月9日まで)
1947年 昭和22年 5月3日 宮内府図書寮正倉院事務所が設置され、宝庫と宝物の管理が博物館から移管される
1953年 昭和28年 3月 鉄筋コンクリート造の新宝庫(現在の東宝庫)が竣工する
1962年 昭和37年 3月 西宝庫が竣工する。翌38年、宝物を西宝庫へ移納
1997年 平成9年 5月 宝庫(正倉院正倉)が国宝に指定される
1998年 平成10年 12月 宝庫(正倉院正倉)が「古都奈良の文化財」の一つとして世界文化遺産に登録される
2014年 平成26年 10月 平成23年8月から実施されていた宝庫(正倉院正倉)の改修工事が完了する。屋根瓦が全面的に葺き替えられ、小屋組も補強された

【主要参考文献】

  • 福山敏男「東大寺の諸倉と正倉院宝庫」(同著『日本建築史研究』、墨水書房、昭和43年)
  • 和田軍一『正倉院案内』(吉川弘文館、平成8年)
  • 橋本義彦『正倉院の歴史』(吉川弘文館、平成9年)
  • 西洋子『正倉院文書整理過程の研究』(吉川弘文館、平成14年)
  • 杉本一樹『正倉院―歴史と宝物―』(中央公論新社、平成20年)
  • 『正倉院紀要』第38号(宮内庁正倉院事務所、平成28年)

第77回 正倉院展、2025